藤の寝椅子と蝶形骨

 わたしとエスは夏休みを利用して避暑に来ていた。海が見える旅館に本をたくさん持ち込んで、二泊三日。読書合宿ということになるのだろうか。いつもエスのまわりを飛んでいる蝶は、あの書斎を出るところまで見送りに来たあと、どこかへ行ってしまった。エスは普段と違う装いで、まぶしいほどだった。それをそのまま伝えると「……ばか」と本で顔を隠してしまった。どれだけかわいいんだ。
 一日目。通された部屋は二人用で、モダンな造りの和室と、窓側に広めにとられた板張りのスペースで構成されている。あのスペースの名前はなんというのだろう。窓の前に置かれた小さなテーブルを挟んで、木製の椅子と籐の寝椅子がある。海が見えるように窓のほうを向いていた。エスが寝椅子に近づいて言う。
 「旅人さん、向きを変えたいのだけれど、手伝ってもらえないかしら」
 「いいけど、海、見えなくていいの?」
 「肩越しに光が入るから、こっちの方が本を読みやすいの。それに」
 「それに?」
 「……あなたの顔が見たいから」
 どれだけかわいいんだエス。

 窓を開けると波の音と潮のかおりが入ってくる。荷ほどきをしながら他愛のない話を楽しむ。
 最近は漫画も読んでいるのよ。そうなんだ、気に入ったものはあった? ええ、あの作家さん、新刊が出るそうよ。そうそう、買おうと思っていたんだ、今度行こう? そうね、あなたもやっと落ち着けるようだし。あはは、繁忙期がやっと終わったからね、これで羽を伸ばせるよ。「……そういえば」エスは神妙な表情に変わって言う。
 「もう一度だけ聞くわ。あなたはご実家には帰らなくてもいいのね?」
 「それは」目をそらして俯いてしまう。実家からの連絡を無視し続けていることはエスも知っている。
 「いいの。エスに悲しい思いをさせたくないから、連れていくつもりもない。……今のところは」
 黙ってしまうと波の音が大きく感じられた。
 「……わかったわ」
 「ごめんね」
 「謝ることじゃないわ」
 この話はこれきりで、尾を引くことはなかった。その後は温泉を楽しみ、読書をして、夜遅くまで本の感想を言い合った。

 二日目。よく晴れた午後。わたしは文庫本を一冊読み終える。これも面白かった。一挙に最後まで読み切ったのは久しぶりだった。このような環境だと没入具合も違ってくるみたいだ。飲み物でも、と思ってエスを見ると、彼女は寝椅子にもたれて眠っていた。
 一日の終わりの睡眠以外で彼女が眠っているところはを見るのは初めてだ。稀に寝ぐせをつけているときもあるが、それもすでに目を覚ましたあとだ。穏やかな海のさざめきに誘われたのかもしれない。珍しい光景を少しだけ楽しんだ。少しだけ。
 椅子の形状に支えられているので、格好を崩して倒れることはないだろう。本を落としてしまわないよう、力の抜けた手からハードカバーをゆっくり抜き取り、テーブルに置いた。備え付けの冷蔵庫からペットボトルを取り出し、一口飲む。エスが起きたら冷たいコーヒーでも飲みに行こう。それまではまだ本を読むことにした。
 キャリーケースから、図書館から借りた本を取り出す。人体の骨についての本だ。医学書に分類される。前から興味があり、この機会にと思って借りてきたのだ。「はじめに」から読んでいく。これは持論だが、「はじめに」がよい本は以降全ページがよい。この本の「はじめに」はしみじみとよかった。読み進める。基礎知識からスタートし、第一章「頭部の骨」へ。正確なイラストの横に書かれた文字をたどる。前頭骨、頭頂骨、後頭骨、側頭骨、耳小骨、蝶形骨……。
 「蝶」の文字にはっとした。蝶形骨。大翼、小翼、翼状突起からなる。誰の眼窩の奥にもこれがある。思わず片目を押さえた。この奥に。
 エスはこの世の本をすべて読んでいる。本に書かれていることはなんでも知っている。ならばこのことも知っているのだろう。その身体に、心に抱えられているものはどれほどだろう。たくさんのことを持ち続けるとはどういうことだろう。
 エスを起こさないよう音を殺して近づき、そっと両手で顔を包み、顔を近づけ、おでこを合わせた。鼻先が触れ合う。もし夢をみているなら、どうか安らかなものでありますように。

 三日目。わたしたちは早朝の浜辺を歩いていた。わたしが誘ったのだ。波音ばかり聞いていては、潮風ばかり嗅いでいては、ままならない気がして。まだ暑くなる前の時間、太陽は昇りきらず、砂浜は素足で歩ける温度だ。手をつないでゆっくり歩いていた。きらきら光る凪いだ波を眺めてると、エスが口を開いた。
 「昨日の午後、うたたねしてしまったでしょう? あのとき、夢を見ていたの。細かい内容は思い出せないのだけれど」
 歩き続け、無言で続きを待つ。
 「あなたとどこへでもゆく夢だったの。『手の届く範囲』なんてものを脱ぎ捨てて、ほんとうにどこへでも」
 足をとめた。エスも立ち止まる。わたしは手をほどき、目の前の存在を抱きしめた。細い腕に抱きしめ返される。祈るような気持ちになったが、誰になにを祈ればいいかわからなかった。
 何度波が寄せただろうか。どちらからとなく腕をほどく。
 わたしたちはおでこを合わせたあと、一度だけキスをした。
 そうしてまた、歩き出した。




参考:『ぜんぶわかる骨の名前としくみ事典』監修 山田 敬喜/肥田 岳彦(成美堂出版)

初出 2019/8/5



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