あるとき思い立って、この世の本すべてが収められている『あの場所』の広さを体感してみようとしたことがある。見渡す限りの本棚に果てはあるのか、と思ったのだ。わたしとエスがいつも本を読んでいるのは、ソファーやテーブルが設えられた一角である。そこを出発点とした。
本棚のあいだ、本の背が並んだ通路をまっすぐに進んだ。エスはその後ろで文庫本を読みながらついてくる。ぶつからないように目を配りながら、通路の交差点を十、通りすぎる度に手帳に「正」の字を書きこんでいく。途中、気になった本があれば著者とタイトルをメモしておく。いちいち抜き取っていれば、わたしはワゴンを押さねばならなくなっていただろう。エスと、この本が気になる、ああその本は……などと話しながらのんびりと歩いた。
ずいぶん歩いたなと思った頃、エスが文庫本を読み終えた。正の字は四十二と半端が三、つまり交差点を二一三〇箇所過ぎたことになる。行く先に目を凝らしても端は見えない。わたしたちは顔を見合わせ、頷きあった。戻ろう。
帰り道はあっという間だった。交差点も二一三〇箇所もあったように思えない。しかし、わたしたちは容易に戻って来られた。エスに、遠い箇所にある本はどうやって取りに行っているのか尋ねると、
「読みたい本を探して歩いていると、ふいに近くの本棚に見つけるの。そこから戻るときも苦労したことはないわ」
ということだった。
後日、わたしはゼムクリップ二千個入の箱を持って『あの場所』へ行った。ヘンゼルとグレーテルよろしく、道標にしながら歩くのだ。エスに一緒に来るか聞いてみると「今いいところなの」と本から顔をあげてくれなかった。
出発点は同じだが、方向は変えてみることにした。前回の方角と垂直に、側板が見える通りを進む。まず足元にひとつ。四歩進むごとにひとつ。持った箱からひとつづつ足元に置いていく。
一人でこれを続けていると、森の奥、親に置き去りにされた幼い兄妹のことが頭に浮かぶ。振り返ってみると確かに点々とクリップが落ちている。しかしあの一角は目視ではわからなくなってしまった。彼らは道標を失っておそろしい魔女のもとへ至った。わたしはどこへ辿りつくのだろうか。
行く先にエスの姿が見えた。そんなはずはない。わたしは本棚の道に沿って直進していたのだ。クリップを落とすのも忘れ駆けよってみると「あら、おかえりなさい」と迎えられた。テーブルの上にはハードカバーが五冊積まれている。周囲を見てみると、どうやら出発した通路の一本横から出てきたらしい。箱の中身は半分ほどしか減っていなかった。
休憩ののち、道標を回収すべく再度出発した。蒔いたとき、周りの本棚には自然科学や建築の本が多く並んでいたのだが、今度は小説ばかりである。歩いた距離も同じくらいに感じられた。
戻ってきたのは、エスがちょうどコーヒーを淹れているところだった。わたしの分も淹れてくれるというので甘えることにした。多少不思議でも、こうして過ごせるのが『あの場所』なのであろう、とコーヒーの香りと共に感じたのを覚えている。
初出 2020/2/4